(埼玉県越谷市 宮内庁鴨場近辺)




~column~ 「手先の鍛錬」から(2012年5月27日)

 「手先」について、鍛錬からはすこし離れますが、「手先」に関して、「良い物を使う」という事が大切に感じられます。「手先」から、物の動き方や、材質感などを学ぶことが出来ます。  

 「一流品」とは評価されていない物を日常使用していますと、その「動き方や材質」などを無意識にも学ぶ事となりその「手先」から、「一流品」を創り出すことは難しくなります。  

 ですから、大人は経済の許す範囲で、何か一品、良い物を持つべき ですし、子供は最高の材質である、「自然」材質を使用したおもちゃ、 木の積み木などで遊ぶべきですし、けがに充分注意して、木工などをするのも良いのではないでしょうか。  

 「手先」で学び、「手先」で創り出すということを、大切にすべきではないでしょうか。そう考えてみると、「おりがみ」や「あやとり」、「竹細工」に「お手玉」 など、「手先」にやさしいものばかりです。ぜひ、先人が伝えて下さった 素晴らしい遊びを、子供はもちろん、大人も、日常生活に取り入れて みてはいかがでしょうか。
                                         


~column~ 身体に訊く(2013年1月29日)

 以前、アメリカ映画について、この様な話がありました。「無声映画から始まった映画は、伝統的に言語に依らないでも、映像だけで観衆に理解してもらえる様に作成されている。」  

 現実に、筆者も、無声映画のパントマイム芸に大笑いして、字幕が 出てくるといやな表情をする、まだ字幕を読み切れない子供を観ました。あとで映画の内容を聞いてみると、ほぼ大筋は正しく、非常に感心したものです。もちろん、言語に依り伝達する「字幕」や「台詞」を否定するものでは ありませんが、「身体で表現する」事の素晴らしさを、再認識しました。  

 我々も「身体」を使うことを忘れないで、「身体」に「表現」してもらう様に努めるべきではないでしょうか。「私がこの程度の事で疲労する筈がない。」と思い込まないで、身体に疲労しているか「訊いてみる」事も必要なのではないでしょうか。 きっと身体は正直に、応えてくれるものと考えます。
                                         


~column~ 「日本は世界と違うから駄目」とは(2013年6月16日)

 よく、テレビやラジオで、この様な発言を耳にします。 「日本は世界と違って、閉鎖的で古いから駄目だ。」「日本は島国で、世界と違うから駄目だ。」  

 つまり、「日本の文化は駄目、世界の文化は素晴らしい。」と言う訳 です。  

 ここに筆者は違和感を感じます。「『世界』とやらのなかで、『自国の文化も歴史も、『世界』と違っているから駄目だ。』と自虐している国の名前を挙げて下さい。」この問に「日本国」以外の答えがない場合、すなわち、「世界のなかで、自国の文化や歴史を『世界と違うから駄目だ。』と言っている国は無い。」という事になります。 それが『世界』だというのであれば、「日本は世界と違うから駄目だ。」とは、そのまま、「日本は『自国の文化や歴史を尊重する世界の国々』と違うから駄目だ。」となり、つまり、「日本は自国の文化や歴史をもっともっと尊重しなければならない。」 となります。  

 この問に答えがある場合、挙げられた国名が2,3国であるならば、 「何をもってその2,3国を『世界』と称するのか。」疑問ですし、「その国が『自国の文化や歴史は駄目だ。』と言っている実例を挙げて 欲しい。」ものです。実例として、「あの国は反省している。」という場合もあるかも知れませんが、それは何かに対する『反省』であって、自国の文化や歴史を否定しているものではありません。  

 更に、このような発言をする人は、「自国の文化や歴史を否定した後、その国にどんな国になって欲しいのか。」甚だ疑問です。「日本は世界と違うから駄目だ。」この一言で、何でも結論を出した様な格好をする事はとても簡単です。しかし、この状態を言葉で表現すれば、「思考停止」という言葉が、最も適しているようです。  

 皆様におかれましては、更に、若い方々は、この様な『キメ言葉』などには耳を貸さず、自信と探求心を持って、大いに、日本の文化や、歴史や、伝統を学ばれてみてはいかがでしょうか。日本は、国土は狭くとも、 文化や歴史は、とてつもなく深いのではないでしょうか。  

 筆者が子供の頃、まだ、街では国の祝祭日ともなれば、多くの家で 門に国旗を掲げていたものです。若い方々には、自信を持って、その 美しい風景を取り戻して頂きたい、と考えます。
                                        


~column~ 剣道に学ぶ(2013年9月28日)

 この夏、越谷市剣道連盟様主催の、「越谷市小学生剣道大会」を 見学させて頂く機会に恵まれました。姿勢も良く、礼儀も正しく、そして裂帛の気合で試合にのぞむ、このちびっ子剣士たちを観ていると、お節介ながら、将来が頼もしくてなりません。ちびっ子剣士がさらに増え、さらに躍進される事を願います。  

 ちびっ子たちの人間形成に尽力されておられる先生方のお話に、大いに教わるところもあり、そして、越谷市は剣道も大変盛んな土地であることも教わりました。

 さて、ここで、筆者が勝手に想像している、「理想の体育館」についてお話させて頂きます。毎日、小学校、中学校の授業が終了すると、バスが校門までやって来ます。割り当てられたエリアを一廻りして、行き先は市営の体育館です。体育館では、一部分を「夜間開放」して、柔道、剣道の自主練習に場を提供します。監督者が必要ですから、そこはご年配の武道経験者数人にお願いし、出来れば、お年寄りと若者の交流も計りたいところ です。  

 若者が大いに汗を流している間、ご両親は安心してお仕事をされても良し、ご自身の時間を有効に利用されても良し、と考えます。さらに、幼児も参加出来る練習や体操も行い、保育士の方々に監督頂ければ、体育館の一室は「夜間保育室」となり、ちびっ子はすくすく育ち、ご両親は安心してお仕事に励めることとなります。  

 そして、時間になれば、体育館から発車する循環バスで、また校門まで戻り、そこに迎えに来てくれるご家族と、楽しく語らいながら帰宅の途に着く。若者は大いに汗を流し、ご両親はお仕事をされ、若者とお年寄りの交流も計ることが出来る、そんな「新しい体育館」を、ぜひとも 越谷市には、実現して欲しいものです。






~column~ 「新しい日常」点描(1) (2020年10月31日)

「新しい日常」「あるべき日常」

 コロナウィルス対策を織り込んだ、「新しい日常」という言葉が街を飛び廻ります。

 かつて、「強毒性新型(鳥)インフルエンザ」が発生した場合の対策が熱心に語られました。対策として、

「マスクには浮遊しているウィルスから口、鼻の粘膜や呼吸器系を守るもの、それから唾液が飛び散る事を防ぐのが主目的で、食品業界で主に使用される、飛沫防止用のものがある。強毒性新型(鳥)インフルエンザ対策はもとより、通常のインフルエンザであっても、当然に、前者のマスクを着用すべきである。」
「目の粘膜からもウィルスは感染するので、保護対策が必要である。」
「手でいろいろな所に接触すると、ウィルスが付着して、感染拡大につながる。手指消毒の徹底と、余計な物に触れない努力をすべきである。」
「室内の浮遊ウィルス対策として、空気清浄機を設置しましょう。」等、提示されました。

 テレビ番組で検証が行われました。「これが推奨された対策をすべて実装したスタイルです。」と呼び込まれたモデルさんの姿は、まさに船外活動をする宇宙飛行士そのままでした。

 「コロナ対策」では、アクリル板を隔てれば、マスクを着用しない事も、手でいろいろと触れる事も可能です。

 ただ、仮定の域ではありますが、この「コロナ対策」をした空間に数名が集ったとき、風邪で高熱を発し激しく咳き込む人がいたらどうでしょうか。「アクリル板もあるし換気もしている、みんなお互いに距離もとっているから、マスクを取って大いに語ろうよ!」となるでしょうか。
 「コロナ対策」では「自覚は無くとも既に感染しているかも知れない人が、他者へウィルスを感染させない為の対策にも有効」なのであれば、「既に風邪を引いているいる人が他者へ風邪をうつさない為の対策としても有効」な筈です。

 対策装備の違いを観ると、新型コロナウィスルの感染力は、「強毒性新型インフルエンザ」はもちろんの事、通常のインフルエンザよりも、そして風邪よりも、相応に弱いものという印象です。

 あくまでも筆者の私感です。テレビ番組で前置きがあります。「今日もコロナ対策を充分にとっての放送です。」とは、誰に向かって、何の為に前置きしているのでしょうか。「これが新しい日常、新しい生活様式です。」とのシュプレヒコールに、もしも、「今までの日常を捨てて、『根拠なき発表、放送』という『指示』に従って下さい。」との意味が含まれているのであれば、そして今回に限らず新たな事態に直面するたびにこのシュプレヒコールと行動を繰り返すのであるならば、それは先々、「行動の制限」「思考の統制」「服従人間の製造」へと繋がる様で、違和感を感じざるを得ません。ただし、あくまでも筆者の私感です。

 もちろん、その装備や対策が効果のあるものであるならば、当然にそれは採用すべきです。コロナ禍に限らず、現在は地球環境の変化が指摘されており、この変化に伴い、良くも悪くも、これまでの経験や常識では想定出来なかった事が起こり得ます。防災の備蓄と同様、少しでも効果が予測されるのであれば、準備という対策はすべきです。ただそれが、慌てふためき右往左往し、流されての行動では、何かしらの危険に繋がるのでは、と危惧するものです。

 「なぜ、『満員の交通機関』は問題なくて、『夜の街』は問題が有るのだろう?」
 「『今日は家庭内感染が感染原因として最多でした。』といっても、その家庭にウィルスを持ち込んだ人は、どこから持って来たのだろう?」
 「『今日は感染経路不明が感染原因として最多でした。』というのなら、何処が安全で何処が危険か、特定は出来ないのでは?」
 「そもそも、未知のウィルスへの対策に対して、『国が悪い!』『政府の対策が悪い!』と大騒ぎする人は、対策の正解を持っているのだろうか?」

 多くの人々は皆さま冷静です。多くの人々が上記の様な疑問を当たり前に抱いておられます。多くの人々が、柔軟で、強固とした「自分自身」を見失ってはいません。

 「未知なウィルスだから、対策となるものは採用するし、会社の方針にも従う。でも、そのうえで自分の生活慣習は守るし、対策や方針への吟味は忘れない。」
流される事なく、確固とした「自分自身」を見失わない人がいます。
 「自分が感染するより他者へ感染させる事が嫌だ。」と、街角インタビューに答える若者がいます。この尊い、「他者への思い遣り」を持つ「自分自身」を、この人は見失ってはいません。

 その人がその人であるための、その人の慣習を含めた日常

 変化には柔軟に準備や対応をし続けていても、決して変わる事の無い日常

 「あるべき日常」がそこにあるのです。

自分にとっての「あるべき日常」とは何か、変化があっても、変わらない事とは何か。観つめる事も大切なのではないでしょうか。